道具学への招待 vol.98 日陰者の郷愁

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 パリ、サン・ポールの小さな骨董屋で出逢った、四角い器。鋳物ホーロー独特の冷やりとした感触で、手に取ればずしりと重い。店主が言うには、ル・クルーゼ社が創業50年を記念して上顧客に贈った灰皿であるらしい。あの有名な、鮮やかなオレンジ色を選ばなかった心意気も好ましく、買い求めて帰った。
 あれから十数年、灰皿はめっきり影を潜めた。かつてはタバコや飲料メーカーが販促品としてオリジナルを盛んに作ったものだったし、日本の応接間ではインテリアの仕上げですらあった。工芸品として素材も様々、意匠も実に多彩だった。
 喫煙者の肩身が狭くなる一方の今、灰皿は販促品や贈答品のリストから消えた。ミステリー小説で犯人が思わずんで振り下ろす道具としても、もはやリアリティーはない。はて、用を失った灰皿たちはどこに行ったのだろうか。目の前のそれも、日陰者の郷愁に似た静かな光を帯びつつある。私はぷかりと、一服つけた。

(原田憲久 2013/05)

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